むかしばなし


樫村又五郎の子孫は,現在の樫村元太郎さんです。
樫村さんの話によると,何代か前の先祖が小川町にある親類の家に用事があるとき「オーイ」と大きな声を出すと, その声が小川町の親類の家まで届いたということを, 子供の頃聞いたことがあるそうです。

今は湊でも一番といってよいくらい賑わっている田中町ですが, つい最近までは静かな町でした。

田中後や相金に人家がまだなかった頃は, お盆ともなれば昔の田中町からは館山の灯籠の灯りが無数に見えました。
館山まで遮断する物が何一つなかったわけですから,それは当然かもしれません。
 
また,50年くらい前までは,現在のカスミの駐車場あたりに小さな川が流れていて,そこにはいろいろな小魚が泳いでいました。
そして, 夏ともなればホタルも飛び交っていました。
そのような美しい自然は,過去のものとなってしまいました。

田中後にも次々と住宅が建てられ, 現在のよな大きな町となってきたわけです。
一方では,田中後の信号機のない狭い道路を通る車による交通事故等の心配などもあり,自治会としても安全・安心のあるまちづくりのために私たち一人一人が十分注意していかなければならないと思っています。


田中町の由来

「那珂湊名所図画」に「田中坪釈迦町ヨリ下町街道ニテ字、田中、国神前等ナリ。
天保年間迄ハ左右田畑続キナリ。
此地ノ中程右側二桶屋職樫村又五郎ト云者、初メ一軒家作リ、夫ヨリ追々人家作リシテ、今ハ悉ク町並ヲ連ネ繁昌セリ。
此人民ハ多ク小川坪ヨリ出テ居住ス」とある。

「田中」とは文字どおりのところにできた町並からの名であろう。
古くこの辺一帯を田中、とも称したのか、ほかに「田中前」「田中後」の地名があった、、天保十三年の村絵図によればこの地域には街道沿いに堰ノ上、国神前の一部が含まれ、大部分の地域は「才子前(さいこまえ)」と記されている。   全文を読む

「那珂湊の地名(発行那珂湊市) 昭和六十一年より」

「明治の田中」  
 
昭和48年に阿久津一郎さんが発行していた「たなかだより」の中に次のようなことが載っ ていました。現在から比べるといかに世帯数が少なかったかが分かります。



 「明治は遠くなりにけり」ととか申されておりますが,上組,中組のお稲荷さんの輪番管理の保存箱より拾い出してみました。
なんらかの意義を見出して戴ければ幸いです。

◇ 明治三年頃

瓦や, すや, 又五郎, 鹿島や, 権七, 上川や, 大のや, かじや源七, 仙台や, の田や, なバや, と古や, 大阪や, さのや, 福田や, 助次郎, 金沢や, 仲や, 忠藏, 吉五郎, 弥平次, 糀や, 久七, 大門や, なわや, 藤竹, 竹三郎, 弥平, 弥市, まつや, 二川や, 忠次郎, 弥兵衛, 桶久, せを, 幸手や, 沢や, 藤肋, 下駄や, 入や, 鍬柄や
◇ 明治三十五年頃

田中子之吉, 石野格吉, 安嘉平, 石川健之助, 小滝又蔵, 大谷長兵衛, 川又あさ, 河野ミツ, 岸田与吉, 大津初太郎, 雨宮藤七, 小圷子之介, 根本浅吉, 川上鍬市郎, 後藤兵ヱ衛, 大和田清治郎, 大高やを, 石野弥平治, 安藤源七, 磯良権四郎, 卯野卯之介, 磯前春次郎, 稲野辺長四郎, 樫村常造, 大川長吉, 笹嶋直吉, 古渡常七, 番場重造, 金沢竹次郎, 坂場新太郎, 川又清五郎, 鈴木嘉平, 照沼藤介

            (考古学史料館より)

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