交流の広場

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湊八景は,撰者不明ながら事蹟雑纂巻二十三に宝暦十三年(西暦1763)の記述があることから,

斉昭による水戸八景撰定よりも以前から知られていたことが分かっています。

その撰定地も文献により異なるため、幾種類かの八景が知られています。

昭和58年に当時の那珂湊市教育委員会によって,水戸那珂湊絵図を参考に石碑が建立されました。

今回からこの地について,ひたちなか市教育委員会より出されている

「ひたちなか市八景めぐり」よりご紹介いたします。

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湊八景@ 新堤の落雁

「新つつみ清き堀江にすまんとや珍らかそうに落るかりかね」

碑は新堤の養護老人ホーム北勝園みなと館の敷地内にあります。

新堤は溜池の名称ですが,この近辺の地名でもあります。

この地は眼前に水田が広がり,

昔は雁の群れが羽を休めに降り立つ光景が見られたのでしょう。

今でも溜池には,羽を休める数種類の水鳥が確認できます。

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湊八景A 八幡の夜雨

「みとりなる色も黒みてやはた松いく夜ふりぬる春の霖雨」



碑は八幡町のハ幡神社境内にあります。

鮮やかな緑の松も夜雨のせいで黒くなってしまい,
なかなか止まない雨を憂いでいる様子がうかがえます。
伝説では昔八幡太郎義家が奥州討伐の時戦勝を占うため,
松を逆さに植えたものがやがて高さ5丈あまりの大木になった
といわれています。

枝葉が柳のように垂れ下がり,これを「八幡の逆さ松」と呼び,
海上からは航行の目印として利用されてきました。

この松は明治358月の大風で倒れてしまいましたが,
現在根株が残されています。






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湊八景B 富士坂の暮雪

「ころ不二も駿河の冨士も冨士坂道ふみ迷ふ雪の夕暮」



碑は富士坂の途中,
那珂湊第二小学校へと向かう分岐点にあります。

しんしんと降り積もる雪が通りや畑の境界をも消し去り,
夕暮れの薄暗さも手伝ってか,慣れたみちでさえもまるで
別の地の景色を見ているような錯覚を感じたのかもしれません。

那珂湊第二小学校を過ぎ少し行ったところにある
富士見陸橋からは,空気が澄んでいるときは
いまでも富士山が見えるそうです。






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湊八景C  和田の帰帆

「沖津波立ちさわらまし真帆引いて和田の汀によする釣舟」

碑は那珂湊総合支所正門の左側路地を進み,

突き当たりを右手に進んだ所にあります。

この地は水戸ハ景「水門帰帆」の選地としても有名な景勝地で,

建碑された当時は,眼下に港や那珂川河口を行き交う帆船で

賑わう光景が見られたそうです。








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湊八景D  日和山の秋月

 「秋の夜のみちかにあらぬ日和山磯うつ波にうつる月影」



碑は湊公園内の御殿山(=日和山)の頂きにあります。

ここは水戸光圀の命により元禄10年(1697)に

建てられた「貴賓閣」のあった場所でもあり,

那珂川河口や太平洋が一望でき,

茨城百景の遠地にもなっている景勝地です。

秋夜の月が波間に映り

漂う美しい光景が眼下に広がります。










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湊八景E  関戸の夕照

山の端に入る日の影のとりやらぬ関戸に照らす夕暮の雲



碑は国道24 5号線の那珂川に懸かる湊大橋のたもとの

関戸水神宮の境内にあります。

関戸橋(昭和3年竣工)の架橋以前は「関戸の渡し」があり,

対岸の地を結ぶ渡船場がありました。

この地から見る夕焼けに染まる雲の明暗が

とても美しく感じられたことでしょう。
















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湊八景F  峯山の晴嵐

雲さそう嵐も晴れて峯の山 遠かたちかきあしは筑波嶺

碑は国道245号関戸交差点を峯後方面に少し入った左側にあります。

かつては,松竹が茂り「入る矢も通らぬ…」といわれるほどでしたが,

今は周りは削られ小さな小高い丘となっており,

山頂に三峰神社が祀られています。

雨上がりの朝もやの中,

遠く筑波山を望む風景が幻想的に感じられたのかもしれません。












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湊八景G  館山の晩鐘

人相のかねの音遠く館山の響に彼の花やちるらん

碑は館山七か寺の一つ浄光寺山門の左側にあります。

光圀の社寺改革により元禄9年この地に

浄光寺が釈迦町から移されました。

この時光圀から浄光寺に光圀の銘を彫った鐘を寄付されました。

その後外国船が海上に見え隠れする時代となり,

海防を重要視した藩主斉昭(烈公)は大砲鋳造のため反射炉をつくり,

この鐘も大砲の鋳造のため溶かされてしまいました。

遠く聞こえる鐘の音が,ゆっくり静かに過ぎていく夕暮れ時に

溶け込んでいる風情が感じられます。



                                        (完)






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